| 南総の丘陵地帯を散策 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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千葉・房総半島ツーリングの第2日目は、江戸時代末期の長編小説「南総里見八犬伝」の舞台になった犬掛(いぬかけ)に行ってきました。お宿を借りている館山市の隣町・南房総市の山間部にあります。道が途切れて引き返すハプニングに見舞われましたが、総じて南総の歴史や美しい自然を存分に楽しむことができました。
この日の関東地方はおおむね晴れだったのですが、房総半島の南端部には雨雲がかかっていました。太平洋に突き出ているため、湿度が比較的高く雨が降りやすい海洋性気候の特徴が感じられます。本来は最南端の野島崎に足を伸ばそうとも考えたのですが、雨のため代案として予め考えておいた北部の犬掛方面に自転車を進めました。 犬掛は、曲亭馬琴(きょくていばきん)さんの著作「南総里見八犬伝」に登場する犬「八房(やつふさ)」が生まれた場所ということです。物語のきっかけとなる重要な役割を担う犬で、当時、この地域一帯を支配していた戦国武将・里見義実(さとみよしざね)の娘・伏姫(ふせひめ)と夫婦になるという設定です。 わたしはお宿で朝食をいただいたあと、館山湾沿いに北上。館山駅の隣り駅の那古船形(なこふなかた)駅から犬掛のある山間部へ自転車を進めました。山間部といっても標高200メートル前後の比較的小さな山々が続く丘陵地帯で、自転車でも割と気楽に走れるエリアです。 那古船形駅付近に来てみると「南房総市」という看板が目につくようになりました。2006年3月に富浦町(とみうらちょう)など6町1村が合併してこの名称に変わったそうです。本日のルートは旧町名で言えば富浦町→富山町→三芳村などを経由して自転車を進めたのですが、合併によってすべて新市に編入されたため、期せずして“市内散策”のようなツーリングになりました。 | クリックすると拡大します。 |
| 仲尾沢ダムで折り返し (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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手持ちの地図では那古船形駅の山手に仲尾沢(なかおさわ)ダムがあり、道なりに進んでいくと犬掛方面に出ると示されていました。ところが実際は仲尾沢ダムの向こう側は行き止まりになっていて、自転車では通り抜けができませんでした。
ダムは沢を堰き止めたような小規模なものでした。水が濁っていたこともあり“湖”というよりは“沼”という感じです。恐らく地域の小規模な農業用水として使われているのだと思います。 黒潮暖流による海洋性気候の影響を受けているこの地域は、内陸部に比べて日夜の温度差が少ないのが特徴です。このため花卉(かき)の栽培に適しており、一般の民家でも庭先にさまざまな草花が植えられています。ただ、先へ進めばすすむほど、クルマが通ったタイヤの跡さえも少なくなってきて、行き止まりの兆候がより顕著になってきました。 ◆仲尾沢ダムまでの緩やか坂道を上り詰めたところで、案の定、道がなくなっていました。仕方がないので、ダムの北側を並走する地方道185号線へ迂回するため、再び那古船形駅近くまで引き返しました。
185号線の入り口付近には房総半島を南北に走る有料道路・富津館山道路(ふっつたてやまどうろ)の富浦インターチェンジ(IC)がありました。併設されている料金所の建物はまだ真新しい感じで、たくさんのクルマが行き来しています。2004年に開通したということで、これによって東京都心から館山までの交通の便が大幅に改善したそうです。 |
| 妖犬・八房誕生の地 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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犬掛までは標高120メートルほどの峠をひとつ越えなければなりません。仲尾沢ダムからの折り返しで計画より時間が押していたこともあり、わたしは一気に犬掛まで自転車を進めました。幸いにもクルマの通りもさほど多くなく、路面の状態も良好。それなりに走行ピッチを上げたことで、ある程度の時間短縮を図ることができました。 峠から坂道を下るとそこは犬掛の地です。山に囲まれた静かな集落ですが、「南総里見八犬伝」の始まりの舞台となり、かつ激動の戦国時代に大きな合戦があったことでも有名なところです。 坂道をするすると下って犬掛に入り、すぐ目についたのが「南総里見八犬伝」の案内板でした。指示に従って幹線道路から集落のなかに入っていくと八房の銅像がありました。比較的新しいもので1995年に立てられたもののようです。犬の銅像といえば渋谷駅前の“忠犬ハチ公”を連想してしがちですが、八房の銅像はどちらかというと魔性の妖怪のようなオーラを放っており、ちょっと趣が違います。 旧富山町(現南房総市)の案内板には次のように記されています。室町時代、農家の技平(ぎへい)さん宅に雄犬が1匹生まれましたが、まもなく母犬はオオカミに食い殺され、子犬だけが奇跡的に生き残ります。乳を与える母犬がいない子犬を不憫とは思ったものの、農作業が忙しく、独り身の技平さんは飼育を半ば放棄せざるを得ませんでした。 ところが、子犬はすくすくと育ち、日に日に大きくなります。不思議に思った技平さんは、ある夜、そっと様子を観察したところ、驚いたことに夜更けになると年老いたタヌキが現れて子犬に乳を与えていることが判明。北部の富山(とみやま)の方角から毎晩足を運んでいることも分かりました。「タヌキに育てられた犬」として村じゅうで噂になり、南総を治めていた戦国武将の里見家当主・義実(よしざね)の耳にも届きました。 子犬は義実に召し寄せられて「八房」と命名。後に義実の娘・伏姫と夫婦になり、子供を孕むものの、「犬の子は産めない」として自殺。伏姫がもっていた水晶の数珠のうち、8つの大きな玉が飛び散り、物語の中核的な登場人物である8人の犬士(八犬士)として生まれ変わります。八犬伝の物語を大きく展開するきっかけとなる有名なシーンです。 間接的ではあるものの、伏姫は英雄豪傑の八犬士の母であり、これに八房の霊的な力が加わるという一種独得な雰囲気ををうまく演出しています。 | クリックすると拡大します。 |
| 里見氏・犬掛の合戦 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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犬掛には、実はもうひとつ大きな伝承が残っています。伏姫の父親は初代里見氏の当主ですが、その4代目当主の義豊(よしとよ)が、父方の叔父一派と権力争いを繰り広げる血族同士の争いの舞台にもなったそうです。義豊と叔父一派が最後の大合戦を交えたのが犬掛であり、結局、本家の義豊が敗れて、分家の叔父一派が権力を継承したということです。 八房の銅像から少し離れたところに、犬掛の合戦で敗れた義豊とその父・義通(よしみち)の墓が2つ並んで建っていました。現代のような四角い墓石ではなくて、五重塔のように石が積み上げられた多層塔と呼ばれる形式です。室町時代の貴重なもので、地元の方が大切に守っている史跡です。 旧富山町教育委員会の案内板によれば、義豊と叔父・実堯(さねたか)、その息子の義堯(よしたか)との血族同士の争いは、1533年、まず最初に義豊が権力を奪おうとした叔父を襲い、自害に追い込む。しかし、翌年、義堯は父の仇である義豊を犬掛に攻め、今度は戦に敗れた本家の義豊が自害して果ててしまいます。以降、分家の義堯の血筋のものが江戸時代まで家督を継ぐことになります。 「南総里見八犬伝」の著者・曲亭馬琴は、犬掛という地名から来るイメージと里見一族同士の争いが、小説とうまくマッチすると考えたのかも知れません。 八犬伝では里見家の興亡が描かれており、里見義実の娘の伏姫の「伏」の字にも“犬”が含まれ、その夫である八房は犬そのもの。伏姫の子供たちである八犬士の名前にも「犬塚」「犬川」「犬山」など“犬”の字がついています。実在する地名や人名、空想の物語とをうまく織りまぜた展開になっています。 |
| 武田氏ゆかりの寺院 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
寺院の名称は「智蔵院(ちぞういん)」で、旧三芳村(みよしむら=現南房総市)にあります。苔の絨毯がひかれた石段を上っていくと、正面の巨大な岩をくりぬいてつくられた台にお地蔵様が10数体並んでいます。風雨によって摩耗したのか、角がとれて丸みを帯びた感じです。古そうなお地蔵さんは誰が何のためにこしらえたのか、どんな伝説が伝わっているのかとても気になりました。 伝承を見てみると、甲斐(現山梨県)の戦国大名・武田信玄の四男で、武田家当主にまで上り詰めた武田勝頼(かつより)の長男が、1503年に創立した寺院である記されています。つまり、勝頼が敵対関係にあった織田信長との戦に敗れて自害したあと、息子の信勝(のぶかつ)が南総に落ち延びて、この寺をつくったとされているのです。 ただ、史実は当時16歳だった信勝も父・勝頼とともに自害しており、後継者である信勝の死によって甲斐武田氏は事実上滅亡しています。 恐らく何かのきっかけがあって寺院創立の由緒を武田氏直系の子孫に求めたのだと推測されますが、南総の地に来てまで武田氏の名前を見ることになるとは驚きました。百戦錬磨の軍勢を率いた無敵の武将・武田信玄およびその一族の影響がいかに大きかったかを物語っているようです。
八犬士の物語発祥の地であり里見氏一族の合戦の場でもある犬掛。そして甲斐武田氏とゆかりがあり、南国のジャングルのように緑の苔で覆われた智蔵院と、盛りだくさんの見学コースで大満足でした。お宿に帰ったわたしは、昨日を上回る豪勢な夕食をたくさんいただき、有意義な一日を締めくくりました。 (本レポートは2006年秋のツーリング記録を編集したものです) | クリックすると拡大します。 |