| 明日香から比曽寺跡へ (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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奈良・明日香村の自転車ツーリングレポート第二弾です。聖徳太子にゆかりがある比曽寺(ひそでら)跡や高取城(たかとりじょう)跡を走りました。高取城は“山頂に残る雪のごとく美しい”と称えられた山城です。全行程は約42キロメートル。明日香村を出発したあと、標高550メートル余りのトンネルや山を越えて、再び同村に戻ってくるルートです。(第一回目のレポートはここをクリック)
今回のツーリング旅行では明日香村の民宿・若葉さんを活動拠点にしました。暖かいおふとんにおいしいごはんをいただいて元気百倍。いざ出発です。 現代をさかのぼること1400年余り飛鳥時代。“都”は今の明日香村の相当する地域にありました。厩戸皇子(うまやどのおうじ)こと「聖徳太子」が生まれた場所であるとも伝えられ、付近には太子に関係する史跡が多数残っています。比曽寺跡もそのなかの1つ。現在は名称を世尊寺(せぞんじ)に変えて存続しています。 比曽寺跡は明日香村から山を挟んで南側にあり、峠越えをしないとたどり着けません。わたしはまず明日香村の東側を走る地方道37号線を南下し、往路で最も標高の高い鹿路トンネル(標高550メートル余り)を越えました。復路は近世築城技術の粋を集めてつくられた山城・高取城跡(同583メートル)に立ち寄りました。 地方道37号線は両側を山に挟まれた沢沿いの道で、見通しはききません。でも、途中に飛鳥時代の政治改革「大化の改新」を起こしたキーパーソンたちが会合を開いた場所として有名な談山神社(たんざんじんじゃ)があり、訪れる人たちを飛鳥時代へといざなってくれます。 |
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| 談山神社で蹴鞠を見る (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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談山神社では、この日、飛鳥時代の貴族の間で流行した蹴鞠(けまり)を再現する催しが開かれていました。保存会の方々が色鮮やかな当時の衣装を身にまとい、古式にもとづいて実演。貴重な催しを見ることができました。
実はこの蹴鞠、日本史に大きく影響するきっかけになっています。645年、地元の豪族・蘇我氏が政治的実権を握っていることを不服とした一部皇族がクーデターを決起します。中心的役割を果たしたのは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と政治家の中臣鎌足(なかとみのかまたり)ですが、実はこの2人が深く知り合うきっかけとなったのが蹴鞠なのだそうです。 法隆寺で開催された蹴鞠を通じて意気投合した2人は、のちに談山神社が置かれる多武峰(とうのみね)で密会。天皇中心の政治体制に転換する「大化の改新」について話し合ったことから、同峰は「談い山(かたらいやま)」と呼ばれるようになり、談山神社の名前へとつながります。後日、中大兄皇子らは蘇我氏を暗殺し、大化の改新を推進。歴史を大きく動かしていきます。 蹴鞠は当時流行していたスポーツで、今でいえばサッカーのようなものです。鞠(ボール)を足で蹴るという点で共通していますが、社会的身分の高い人がたしなみ、しばしば談合の舞台になるという意味では、今のゴルフに似ているかも知れませんね。
蘇我氏、中大兄皇子、大化の改新…。中学校の歴史の教科書に出てくる単語が、ぽんぽんと飛び出てくる明日香周辺はやはりすごいところです。あなどれません。日本史の黎明期がぎゅっと凝縮されています。 談山神社をすぎてさらに登っていくと真新しい「新鹿路トンネル」が現れました。以前からある古い「鹿路トンネル」はもっと標高が高いところにつくられていますが、山道が険しく通行するのに不便であることから、ここに新しいトンネルを掘ったようです。でも、トンネルの全長が長く、交通量も多いので、わたしは古いトンネルの方へ向かうことにしました。 |
| 鹿路トンネルを抜ける (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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古いトンネルは廃道になるケースが多いのですが、旧道付近に集落があるためか、今でもちゃんと残っていました。トンネルの回りには苔がたくさん生え、いかにも古い感じがするものの、クルマの通りが少なく自転車で走るにはぴったりです。トンネルは自転車にとって危険な場所。新道に比べて半分もない短かさなので、安心して通れます。
トンネルを抜けると吉野山方面の視界が開けました。標高が高い旧道ならではの絶景ポイントです。吉野方面へずっと下り坂が続いていることが分かります。 道なりに自転車を転がし、最初の十字路・佐々羅(ささら)の交差点で右折しました。この道は山腹を横断する農道のような道で、本日のメインターゲットのひとつである比曽寺(ひそでら)跡まで続いています。勢い余って吉野川の谷底まで下ってしまうと行き過ぎなので要注意。 |
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| 太子ゆかりの比曽寺 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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明日香村南側には高取山(標高583メートル)などの山々が連なっています。山の南側の斜面には聖徳太子が建てたと伝えられる比曽寺跡があります。旧鹿路トンネルから下りてきたわたしは、佐々羅の交差点からこの山々の南側の斜面を横切るかたちで、比曽寺跡まで来ました。山腹を横切るために起伏の連続。数十メートルの高低差がいくつもあって体力を消耗します。
出土した瓦などを分析した結果、比曽寺は少なくとも飛鳥時代にはあったそうです。最盛期にはご本尊を安置する本堂や僧侶が教典を講義する講堂、東と西に塔が建つなど大規模なお寺でした。西塔は盗賊に壊されましたが、東塔は1597年、豊臣秀吉によって京都の伏見城へ移され、その後、徳川家康によって1601年、近江(現滋賀県)の園城寺(おんじょうじ)に再度移築されたそうです。 奈良時代から平安時代にかけて栄えたそうですが、徐々に勢いが衰え、江戸時代には今の世尊寺(せぞんじ)と名前を変えたそうです。
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| 壺阪峠から高取城跡へ (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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比曽寺跡を後にしたわたしは、お寺の裏手にある高取山を経由して明日香村に帰ることにしました。山に入ると「安産の滝」が進行方向右手に現れました。妊婦さんが滝に打たれると安産すると伝わる不思議なところです。ただ、付近に立てられた案内板には、「今はそういうことをする人はいない」
ここは眼病に霊験があるという有名な壺阪寺(つぼさかでら)に続く旧街道で、以前は安産祈願のためのお寺があったそうです。ちなみに壺阪寺は人形浄瑠璃「壺坂霊験記」の舞台になるなど全国的に知られたお寺。わたしの祖母の父親(明治生まれ)が「壺阪霊験記」の大ファンで、劇場によく見に行ったそうです。祖母の幼い頃に父親は亡くなっていますが、当時、父親が口ずさんでいた人形劇のセリフの一部を祖母は覚えていて、わたしの小さい頃に聞かせてくれました。 そんなことを考えているうちに壺阪峠をすぎ、本日の最終目標地点で高取山山頂にある高取城跡へ到着。日本を代表する山城で、在りし日、麓から見上げると白亜色をした城壁が山頂に輝いて見えたそうです。地元には「巽高取(たつみたかとり) 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」
なぜ“土佐の城”なのかというと、飛鳥時代、土佐(現在の高知県に相当)から都づくりに必要な労働力を調達。集められた人の多くの人が帰れず、この地に残ったことから土佐町の名前がついたそうです。(案内板はこちらをクリック) 高取城は鎌倉時代から築造が始まり、本格的な近世城郭になったのは安土桃山時代。江戸時代には、徳川家の家臣・植村家政(うえむらいえまさ)が大和高取藩の初代藩主として1640年に高取城の主になります。以降、明治時代までの228年間にわたって植村氏が治めたそうです。明治になると手入れをする人がいなくなって荒廃。本丸などの建物は自然崩壊してしまい、今は石垣をはじめとする遺構のみになってしまいました。(案内板はこちらをクリック) 土台部分から推測される本丸の大きさは東西73メートル、南北64メートルの凸字型の平面を形作り。複雑な地形の上に建てられていたにも関わらず、平地の城のように整然としていたといいます。他にも二の丸や三の丸、大小の曲輪(くるわ=城郭を構成する各種施設)の遺構が多数残るなど、山城とは思えない規模の大きさで、訪れた人を驚かせます。(案内板はこちらをクリック)
往事の高取城の勇姿に思いを馳せながら、わたしは坂道を下り明日香村へ帰りました。談山神社の「大化の改新」から始まり「戦国時代」、「江戸・明治」へと時代を下る今回の自転車ツーリングは、まるでタイムマシンに乗ったような気持ちでとても楽しかったです。 | クリックすると拡大します。 |