| 南大沢から出発 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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2006年秋、津久井城跡に行ってきました。神奈川県西部・津久井湖畔にある山城です。このエリアは都心から近く、これまでも自転車で頻繁に訪れていましたが、実際に城跡へ足を踏み入れるのは今回が初めてです。
津久井城跡は標高375メートルの独立した小さな山の上にあり、湖畔から見るとまるで大きな岩のように見えます。相模湖や宮ヶ瀬湖など神奈川県西部の山間部へ行くときの入り口に位置しており、交通の要衝になっています。戦国時代は隣国・甲斐(現山梨県)の軍勢を阻止する重要な軍事拠点になっていたそうです。 西部山間部は里山が広がり、適度な起伏が続いています。自転車で走るととてもいい運動になります。東京・多摩地区から出かけるときは、だいたい津久井城の脇を通りますので、城跡は以前から気になる存在でした。 電車で最寄りの駅まで行き、クルマの通りが少ない住宅街やサイクリングロードを利用しながらアプローチします。いちばん近い駅は京王線・橋本駅ですが、ここは古くからの商業地で道が狭く、周囲には大型トラックが疾走する工場地帯もあり危険です。そこで2つほど手前の南大沢駅から出発しました。 南大沢駅の周辺は遊歩道が整備されています。近隣の住宅街から安全に駅まで歩けるようにするためです。古い駅ですと道が狭く、バスやクルマがごった返しであることが多いのですが、比較的新しい南大沢駅ではクルマと歩行者を完全に分離。安全な街づくりに努めています。 自転車ライダーにとってうれしいのは、南大沢の遊歩道が戦車道サイクリングロード(CR)に直結している点です。戦車道は町田市の桜美林大学付近から八王子市の多摩美術大学付近まで続く約8キロメートルのCRで、遊歩道は多摩美術大学寄りのところに接続しています。わたしは遊歩道→戦車道と走りつなぎ、JR横浜線・相原駅周辺の住宅街を経て津久井湖方面へ自転車を進めました。【詳細図1参照】 | クリックすると拡大します。 |
| 交通の要衝 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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津久井湖は山梨方面へ抜ける交通の要衝です。このためどうしてもクルマの流れが集中してしまいます。幹線道路の国道413号線は交通量が多くて、とても自転車で通れるような状態ではありません。試行錯誤の結果、相原から境川沿いの住宅街を通り、さらに南下して谷ヶ原浄水場の裏手を経て津久井湖へ抜ける道が比較的安全と分かってきました。ただこのルートは分かりにくいため、詳細地図をご参照ください。【詳細図3参照】
谷ヶ原浄水場は相模川に架かる巨大な橋・新小倉橋のすぐ近くにあります。付近は数十メートルもの断崖に挟まれた渓谷になっています。地形はとても複雑で、急な坂や行き止まりが多いのが特徴です。さらに支流の谷津(やづ)川が流れ込んでいることも複雑さが増す要因になっています。 谷津川にかかる橋を渡り谷ヶ原浄水場の裏手に回ります。相模川の渓谷の崖っぷちにつくられた道なので、本来は見晴らしがいいはずなのですが、実際は木々に覆われてほとんど視界はありません。それどころか道が湾曲して前方の見通しもきかないくらいです。クルマの通りは少ないですが、まったくないわけではないので、特に対向車に気をつけたい箇所です。【詳細図4参照】 相模川沿いに進んでいくと城山高等学校の裏手に出ます。さらに突き当たりまで進むと津久井湖を見渡せる展望台に着きます。津久井湖本体の公園とは国道413号線を隔てて離れているためか人影はほとんどありません。城山高校のグラウンドでスポーツを楽しむ生徒さんの元気のいい声や国道を走るクルマの音が遠くに聞こえる程度で、静かな展望台です。目の前には津久井城のあった“城山”がそびえ立っています。
津久井城跡へ登る前に少し休憩をとることにしました。南大沢駅からここまで約15キロメートルちょっと。往復しても30キロメートルあまりと、きょうはいつもに比べて走行距離が短いです。そう考えるとついつい気が緩んでしまい「ちょっとくらい休憩してもいいかな」と思っていまいます。展望台は日当たりもよく20分ほど昼寝させてもいました。横になって空を見上げると鳶(トビ)が円を描きながら飛んでいます。渓谷から強い上昇気流が沸き上がっていることが伺い知れます。 |
| 北条氏の城跡 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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東京都多摩地区や神奈川県西部は戦国武将の北条氏の城跡があちこちに残っています。北条氏といえば小田原城を本拠地にしていたことで有名ですが、一方で領地の要所に多数の地方拠点「支城(しじょう)」を持っていました。津久井城もそのうちのひとつで、主に甲斐(現山梨県)からの侵攻を食い止める任務を担っていたそうです。
そういえば、先日、自転車で訪れた志田(しだ)峠でも甲斐の戦国武将・武田信玄の軍勢と戦った記録が残っています。津久井城からそう遠くない峠で、ここを越えれば津久井城の背後に出られます。武田側は1569年、遊軍を使って志田峠を突破し、北条側の軍団の背後を突くことに成功。武田軍の正面勢力と背後に回った遊軍との挟み撃ちに遭った北条軍は総崩れになって本拠地のある小田原へ敗走したそうです。 お昼寝で元気百倍になったわたしは、さっそく津久井城へ入城することにしました。展望台から相模川にかかる城山大橋を渡り、津久井城趾の麓まで自転車を進めます。ただ自転車で行けるのはここまで。城跡全体が「神奈川県立津久井湖城山公園」として整備されているものの、山そのものは険しいので徒歩でしか登れません。 相模川を挟んで反対側にある展望台から眺める城山は何の変哲もない大きな岩のように見えますが、実際に足を踏み入れてみると印象ががらりと変わります。戦国時代の遺跡が至るところにあり、「ここは戦うための要塞だった」ことが伝わってきます。
残念ながら天守閣などの建物は残っていませんが、空堀や土塁、曲輪(くるわ)、井戸などがよく保存されています。宝ヶ池(たからがいけ)と呼ばれる城内の井戸は400年あまりを経た今も水をたたえており、驚きました。 | クリックすると拡大します。 |
| 山城と根小屋 (◆の段落や写真を押すと音声や拡大写真が見られます) |
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今は渓谷を利用してつくられたダム湖=津久井湖が水を一杯にたたえていますが、当時は相模川の川底から津久井城まで相当の高さの断崖がそびえ立っていたものと思われます。相模川の渓谷が天然の水堀の役割を果たし、城山の急な斜面は敵を容易に寄せつけません。山や川など自然の地形を巧みに利用してつくられた津久井城はまさに“山城”の典型です。
斜面や尾根にも無数の堀が掘られています。斜面を上から下に掘った「竪堀(たてぼり)」、尾根を横切る形で切り込みを入れた「堀切(ほりきり)」といった遺構が多数が残っていますし、他にも土塁(どるい)や石積(いしづみ)の跡もあります。城主や家臣が陣地を構える曲輪を守るために堀や土塁などの防御策を施した跡が伺えます。 相模川から見て城を挟んだ反対側には城の関係者が生活した「根小屋(ねこや)」が広がっていたそうです。津久井城のような山城は居住できる面積が限られているため、普段は山の麓で暮らしていたそうです。こうした生活スペースを「根小屋」と呼び、今でも「相模原市津久井町根小屋」といった地名が継承されています。こうしたつくりを「根小屋式山城」と呼ぶそうです。 天守閣のあったところまで登ると視界が開けました。大きな津久井湖がすぐ足下に見えます。城のあった戦国時代は武田信玄や豊臣秀吉の軍勢に常に脅かされていたわけですから、高台からの見張りは怠らなかったことと思います。城の最期は1590年の秀吉による小田原攻めのときでした。本拠地の小田原城の落城と前後して数ある支城も相次いで陥落。そのうちのひとつに津久井城も含まれていたそうです。
戦国時代はとうの昔に過ぎ去りましたが、城塞などの遺跡は今でも全国に数多く保存されています。北条氏の支城だけでも津久井城や八王子城、瀧山城など相当数あります。サイクリングの途中で立ち寄ったり、散策で足を踏み入れてみると、まるで戦国武将の息づかいが聞こえてくるようで、とても興味深いです。 |